鳥語花香録

Umiyuri Katsuyama's weblog

古井戸

 古井戸 勝山海百合

 弟が産まれた時のことを、よくおぼえている。産婆さんを呼びにいかされ、昼下がりの田んぼのあぜ道を走ったのだから。
「ばっぱ! 産まれるって」と産婆さんの家の前で大声で叫んだ。もんぺをはき、大きなあずま袋を持っておっとりと外に出てきた産婆さんを急かし、荷物を持ってあげて手も引いたが「そったに走られねでば」と言う。弟か妹が産まれそうな五歳の私には年寄りの足取りがまだるっこしかった。
 ようやくうちに着き、手を洗った産婆さんは奥の間に消える。母親の息む声が続き、やがてほにゃあという初声【うぶごえ】が聞こえた。弟だった。産婆さんは取り上げた弟を見て、「ちょうっと色の黒い子だね」と言ったそうだ。
 弟は三歳になると寝込むようになった。肌の色は黒ずみ、外に出ない弟が日焼けするわけはなく、病気のせいだった。戦争が終わったばかりの日本には治療法のない病気だった。あったかも知れないが貧しい農村にはないも同然だった。囲炉裏の近くにのべられた布団に横たわり、遠くの工場で働いている姉がくれた金平糖のガラス瓶を手の中で弄ぶ弟の身体は日に日に薄くなっていった。そして秋も深まった頃、弟は水すらも吐き出すようになった。ある夜更け、父が井戸で呼んでこいと言うので、深い古井戸に妹と行き、冥界に行きかけている弟の名前を呼んだ。何度も呼んだが井戸の底で水が黒く揺れるだけだった。
 私も妹も呼び疲れ、一瞬の静寂が訪れた時。
金平糖、食べでけろな」
 弟の声が耳を打った。甘い物は貴重だったので、弟の金平糖を羨ましく思っていたことを、あの子は気付いていたのだ。私は井戸の縁を掴んで弟の名を呼んだ。
 遺体になった弟は哀れなほど軽く、夜が明けると父親が抱いて町の診療所に行き、死亡診断書を書いてもらった。
 金平糖は家族で一粒ずつ食べた。甘かった。
 残りは弟と一緒に埋めた。


加門七海福澤徹三東雅夫編『てのひら怪談 己丑 ビーケーワン怪談大賞傑作選』(ポプラ文庫)所収。