鳥語花香録

Umiyuri Katsuyama's weblog

ななかまど

  ななかまど  勝山海百合

 地面の深いところから湧き出す熱い湯は、湯船に溜まる頃にはちょうど良くなっている。
 目隠しの竹垣から風が通り、裏の山から森の匂いが流れてくる。この宿には年寄りの客が多いせいもあって、夜も更けると外湯まで来る人は少なく、私はここにいることが多い。
「昔、どうやっても堤が崩れるからって、若い娘を埋めて人柱にしたんだって。しおみち温泉の近くの、今はダムで公園になっているところ。だからしおみち温泉には出るんだって、その娘の幽霊が」
 娘の幽霊が風呂上がりの若い男の腕にすがって歩く……それは私のことだろうか。埋められた娘というのは私に違いないが、男の腕にすがって歩きたいとは思わない。男の口車に乗せられて連れてこられたのだから。私は色んなことを忘れてしまったけれど、このことは熾(おき)のように消えずに残っている。
 器量も悪いし目もよく見えない、嫁御になるのは来世の望みと諦め、親兄弟の世話になって頼まれ仕事で鍋磨きをしていたのに、相手はちょっと年嵩だどもと後妻の口を持ってこられて夢を見てしまった……私も人並みに若い娘だったのだ。常には塩を運んでいる牛の背に乗せられて往く山道で、ななかまどの紅い実を採ってもらって髪に挿したったなあ。

 雪が青灰色の空から降ってくる。私は堤を守る役を負わせられたけれど、すっきりと青い冬の空を知ったり、夏の夕空に稲妻が走るのがくっきり見えるようになったことは良かった。埋められて百年また百年経って、今は寒くも苦しくもないし、飢えも渇きもない。私の役目はもう終わりらしく、堤からそう遠くない温泉宿までは来られるようになった。温泉には浸かれないものの、湧き出る湯の気配は心地良い。
 雪が降る前は冷えるけれど、雪の降る日は存外あたたかい……そんなことを思い出した。

 
 ポプラ社のwebマガジン、ポプラビーチ掲載。