鳥語花香録

Umiyuri Katsuyama's weblog

雪夜訪戴

  雪夜訪戴(雪の夜に友人の戴氏を訪う) 勝山海百合

 ご主人様が会稽山の東、山陰にお住まいの頃のことでございます。雪夜でございました。
「たれか、酒を持て」
 夜半に呼ばれ、隣室で控えていた私は寝ぼけ眼の侍童を制して、燗酒と肴をお持ちしました。ご主人様は窓を開け放し、雪化粧の庭をご覧でした。このあたりでは積もるほど雪が降ることは滅多にないのです。竹の枝がしなって真綿のような雪の塊を音もなく落とします。ご主人様はお持ちした御酒を召し上がっていましたが、やがて「招隠詩」を詠じながら部屋の中を歩き回り、おもむろにこのように告げました。
「戴安道を訪ねるぞ」
 いつもご主人様が仰っているのですが、興は失われやすいので、兆したらすぐに動かなければならないのだそうです。
 私はご主人様に鵞鳥の綿入れを着せ、防寒頭巾を被せ、藁沓を履かせます。侍童に火鉢を背負わせ、酒瓶と肴の入った重箱を持たせます。ご主人様のご身分から申せば供が二人は少なすぎますが、大袈裟にせずにすぐに出立したい様子です。船着き場まで歩き、船頭を起こして舟を出させました。ご主人様は夜の川面を走る舟から雪が積もって白くなった川岸の葦群を眺めてご満悦です。
 しばらく行くと琴の音が聞こえてまいりました。琴の音がする舟は近づくと、侍童がこちらに声を掛けて戴氏だと名乗ります。
「そちらは子猷殿の舟でいらっしゃるか」
「いかにも、こちらは王氏であります」
 私は返答しつつ不審に思いましたが、ご主人様は奇遇と喜び、こちらからも訪ねるところだった、酒を酌み交わそうと、舟の縁に足をかけて向こうの舟に渡ろうとします。そのとき、一筋の黎明が差し込みました。水禽の声が響き渡りますと、琴の音も舟も何もかも消え失せていました。
 そこはもう戴様のお屋敷のまえでしたが、ご主人様は「興が尽きた」と舟を引き返させたのでございます。


王羲之の息子、王徽之(あざなは子猷)が雪の夜に友人の戴安道を訪ねた故事より。