鳥語花香録

Umiyuri Katsuyama's weblog

爪痕

  爪痕  勝山海百合

 産まれたばかりの坊ちゃんを抱いて、裏戸からそっと出た。奥様がお産みになった子だが、父親は旦那様ではない。旦那様はもう三年も知事として地方に行ってお戻りでない。これが知れたら奥様は石で打たれて殺されるし、私にも鼻を削がれるくらいの罰はあろう。だから夜陰に乗じて坊ちゃんを隠すのだ。隠すと言っても私の里に預けるのだが。きれいな子なので欲しい人はすぐ見つかるだろう。
 お屋敷を離れると小さな影が現れた。小声で阿道かと問うと影が頷く。山の道は里への近道だが危険も多い。賊や獣、あやかしに遭うやも知れぬ。阿道は十を過ぎたばかりだが、山の道に明るいので案内を頼んだ。私は夜目の利く阿道に導かれ、山の細い道を上り下りした。湿った森の匂いが全身を覆う。夜鳥が啼くと心底震えたが、足を止めなかった。
 しかし、だいぶ歩いてそろそろ里に近い野に出るはずなのに山の気配が途切れない。ふと不吉が胸に兆し、まだ歩くのかと阿道に問うと返事がない。足を止めると後から生臭い息を吐く大きな気配が迫っているのがわかった。右手には衝立のよう岩が続き、左手は深い谷。前を歩く阿道の影が薄闇に紛れ、細くて高い声が響いた。
「肉の柔らかい女を連れてきたぞ。おれは片方の太股で充分じゃが、分け前は寄越せよ」
 魔物にたばかられたか。
 私は坊ちゃんを抱きしめて身を固くし、重く鋭い爪に我が身が裂かれる覚悟をした。
「――おい、この赤ん坊はおれの息子ではないか。おまえはおれに、息子を食わす気か」
 割れ鐘のような声がし、生臭い風が吹いた。
「我が息子を連れて行く。娘、これは受領の印だ」
 坊ちゃんが風で巻き上げられると、額が熱した刃物を押しつけられたように痛み、私はうずくまった。

 これが私の額にある赤い爪痕の故事であります。