アンドレス・バルバ『きらめく共和国』(宇野和美訳、創元推理文庫)をご恵送いただいた。ありがとうございます。
単行本の文庫化に伴い、訳者による「文庫版あとがき」が追加されている。
TOKI アンソロジー【予告】
ANONYM の TOKI アンソロジーに掌編で参加しております。二〇二五年一月第三週公開予定です。
『竜岩石とただならぬ娘』自作コメント
拙著『竜岩石とただならぬ娘』が世に出たときに、ネット書店のbk1(のちのhоntо)の購入者特典として提供した自作コメントを公開する。
(『コールドマウンテン』はアンソニー・ミンゲラ監督)
『竜岩石とただならぬ娘』をお買い上げいただきありがとうございます。
読んでいただいた方の理解の一助となれば幸いです。解説ではなくコメントですが、蛇足となって興を殺がれることがありませんように。
「王冠のバナナ」
幼い時に遭遇した不可解な出来事を回想するというパターンを踏襲。陳腐にならないよう、しかしステロタイプを怖れないという態度で挑んだ。収録にあたり大幅に構成を変え、修正と加筆が加えたが、かつてある読者に「逃げようとして車のエンジンが掛からないところはB級ホラー映画そのもの、ベタ過ぎる」と言われた部分は敢えて残した。
作中に登場するバナナの王冠のシールは、エストレラ ESTRELLAというフィリピンバナナのもので、このデザインは今はもう使われていない。
「ひょうたん息子」
一寸法師や親指太郎といった、普通とは違う子どもが福を招く話のヴァリエーション。貴種流離譚でもある。
映画『コールドマウンテン』で、レニー・ゼルウィガーとニコール・キッドマンの住む農場にも鳥を避けるためか、ひょうたんがたくさん吊されていた。
「羅浮之怪」
東京国立博物館に兪明Yu Mingの「羅浮香夢図」という一幅がある(正確には個人蔵)。
満開の白梅の古木に肘を置いて寝ている一人がおり、画面の隅には有明の月という構図で、十年くらい前に初めて見てから気に入っているのだが、どういう絵かよくわからなかった。やがて「羅浮之夢」という故事があることを知り、画題で「羅浮之夢」「羅浮香夢」といえば梅と美女を描くことも知った。美女ではなく眠っている男の方を描いているのは珍しいようだが、若い女だと言われればそんな気もしてくる。ヒゲもなく、あどけない顔ですやすや眠っているので。
故事そのものはほぼ「羅浮之怪」に書いた通りだが、趙氏がこんな鼻持ちならない人物だったかは知らない。
「女の紐」
ツルウメモドキの樹皮を雪に晒して白くしたものを編んで長い紐にして腰に巻くのは、既婚のアイヌ女性の風習で、その紐は女の守り紐と呼ばれる。貞操帯と訳されることもある。この紐は単色なのが普通で、多色だと夫にとって凶兆となり、またこの紐は夫以外には触らせていけないと言われてている。
「楽士の息子」
復讐するは我にあり。
「流刑」
巻末に記した通り、ゲーム「ヤミと帽子と本の旅人」創作コンテスト入賞作を改稿した物。ゲームのキャラクターの一人、メイリン(キツネの耳と尻尾がある美少女)の過去を想像を逞しくして書いた。志怪風のものを書いたのは、本作が初めてだった。
「馬の医者」
怪我をして弱った竜が草の入った籠で傷を癒やすが、籠(篭)という字が竹と龍(竜)の組み合わせで出来ていることと関係があるのだろうか。
「竜岩石」
掌編を積み重ねて短編にするという苦肉の策によって完成させた。最初は水を封じた石(水入り瑪瑙)が竜岩石の役割を果たしていたが、あまりにもありきたりなので竜岩石という架空の石を登場させた。去年の暮れに中国で発掘された貴州竜の化石を見たが、大きさといい色といい、まるで小さな竜の化石そのもので、竜岩石かと思った。
「ただならぬ娘」
外の世界を知ってしまった若い娘が、置き土産をして去って行く。その姿は自我を持った近代女性の典型に似ているが、知恵と才覚はあっても理由がないと家を出られないところが陶納の思いやりであり、同時に陶納の限界なのかもしれない。
唐代伝奇に登場する侠女の聶隠娘に想を得たが、核はさらわれた娘が帰ってきたら、新しい娘になっていたというところ。陶納は異星人に誘拐されたのかも知れない。
テレビドラマの『鹿男あをによし』を一話か二話視聴して知った(『夜のピクニック』のポスターが先な気がするが、動かないので)多部未華子をときどき陶納にキャスティングして書いた。
完成後もタイトルが思い浮かばず、「ただならぬ娘(仮)」だったが、いつの間にか書名にまでなっていた。
「山のあやかし」
中国や、ベトナム、ビルマ(ミャンマー)、ラオス、タイなどの山岳地帯には、いまでもこんな風に歌を歌い、機を織り、餅米が好きな人たちが暮らしている。昔話の体裁をとってはいるが、実は昔話でもなかったりする。
「ねぎ坊主」
朝鮮半島の民話に材を得ている。
宗教によっては、ネギやニンニクといった香りの強い野菜を避ける場合があるが、彼らは修行で自らを律することにより、ネギを食べなくてもヒトが牛に見えてしまうということはないのだろう。修行かネギかを選べと言われたら、ネギを選ぶ。
「いいなずけ」
まだ生まれる前、或いはまだ幼いうちに「将来、この子とうちの子を結婚させよう」と親同士が決める結婚のことを戒婚というそうだ。いわゆる「親の決めたいいなずけ」。個人的にはマンガやドラマでしか見たことがない。
「道連れ」
こんな道連れは欲しくないけれど、日本を離れ、インドのバラナシで成仏できて、女史(あだ名)も良かったのではないか。
ベトナムの地方都市の市場で、明るいトルコブルーのアオザイ(長衣)に白いパンタロンをはいた女性を見て、ティファニーの包装みたいな装いだと思った。ベトナムの若い女性には珍しくショートカットだったのと併せて印象に残っている。
「炊飯器」
先日、東映太秦映画村で行われたイベントのトークショーで、加門七海さんが、京都の座敷に井戸がある料亭の話をし、それを受けて森山東さんが、京都の花街の井戸にまつわる不思議な話をなさった。生活に密着しているうえに、地面を深く掘る井戸は異界に通じていそうな感じがするので、伝承、怪談が多いのも当然のように思える。
トイレと井戸は特に大事にしなければならないとよく言われたので、水道も引かれたし、水も枯れたから、井戸にはゴミを捨てて埋めたという話を聞いたりすると、他人事ながら嫌な気持ちになる。
「猫と万年青」
猫も万年青も本筋には関係ない。万年青はユリ科の植物で、江戸時代に大ブームになった。常緑なのが縁起が良いと、引っ越しの時に家具家財より先に万年青を持ち込む習慣があるが、自分が引っ越しの時に、先駆けて持ってきた万年青は枯れた。
「石に迷う」
年を取れば全ての面で成熟するというものでもなく、未熟なまま老いることもある。求めるあまりに錯覚することは、老若男女を問わずよくあること。
黄紅を主人公にした短編を書くつもりだったが、清代の石印彫刻家の流派や徒弟制度の仕組みなどがよくわからなかったので、黄紅の作品を求める現代人に登場してもらった。
作中の彩雲軒のモデルは、上海の朶雲軒。この老舗の入った建物の階段を使うと従業員に向けられた標語の額を見ることが出来る。意味はよくわからないが、たいへんな達筆なのはわかる。
「陶片」
特に名を秘すある人物に、会社で遅くまで残業をしていると不思議なことが起きると聞いた。男子トイレは自動洗浄(朝顔の前に立つと、自動的に水が流れる)だが、誰もいないのに水が流れ、無人のはずの部屋の、模様ガラスのドアの向こうに人影が見えるという。霊感のある人が会社に立ち寄ったら、良くない感じの霊が彷徨っていると言われたそうだ。
これでてのひら怪談(八百字以内で書く怪談)を書こうとしたがうまく行かなかった。センサーが誤作動して自動洗浄トイレの水が勝手に流れることなんて、ありがちなことだし。
「竹園」
東晋の貴族、王羲之の息子達には逸話が多い。わけても王徽之と王献之には面白い話が多いので、書きたくなった。
作中に、王徽之が従兄弟の阿乞の毛氈を盗んだエピソードが出てくるが、王献之は屋敷に盗賊が入ったときに「他の物は持っていってもいいが、青毛氈だけは置いていけ」と言って盗賊の度肝を抜いたエピソードがある。当時、毛氈(フェルトの敷物)は財産でありインテリアの重要なポイントだったのだろう。それはさておき、阿乞は彼らの母親の弟の息子で、立派な体格で髯が濃く温厚な性質だったらしいが、妹がおり、彼女は王献之と結婚している。王羲之の書簡(児女帖)に、「末っ子(王献之)がまだ結婚していないのだけが気がかり」と記されているが、それからほどなく結婚したようだ。この結婚はすぐに解消され、王献之は別の女性と再婚したが、死期が迫り、道教のしきたりに則って今までした悪い行いを告白するようにと促されたとき、「特にないが、離縁したのだけが心残りである」と語ったとされる。妻も愛人もおりながら。
「白桃村」
ある女性の結婚祝いとして作られた本に掲載するために書いたので、なるべくおめでたい感じを心がけたつもり。
時代によっても異なるが、古代中国の辺境警備は普通三年で、しかも代わりが来ないといった理由で三年で終わらないどころかずっと続くこともこともしばしばだったらしい。辛い勤めだ。
「媚珠」
媚珠を核にして考えているうちにこうなった。
書き上がった順番ではこれが最後。上海に旅行中に、スターバックスやホテルの部屋で書き、通信費を気にしながらネットで日本に送った。上海はちょうど雨期で蒸し暑かった。スターバックスでは、ソイラテを飲みながら、きっちりスーツを着た日本人グループと、半ズボンをはいたアメリカ人旅行者に囲まれて書き、モニターから目を上げたら、黒人女性に親しげに会釈をされ、いつの間にか足を蚊に刺されていた。
日本に帰ったらゲラが届いていた。
感応グラン=ギニョル
空木春宵『感応グラン=ギニョル』(創元SF文庫)をご恵送いただいた。ありがとうございます。
退廃と奇想、呪縛と変容。唯一無二の世界を築き上げる創元SF短編賞出身の鬼才、空木春宵のデビュー作品集がついに文庫化!
キノ・ライカ
キノ・ライカはフィンランドはヘルシンキの映画館を失った(大きな外国資本に追いやられた……らしい)映画監督のアキ・カウリスマキが、座席やスクリーンを再利用して、人口九千人のカルッキラの使われなくなった工場をリノベーションし、二〇二一年に開業した映画館。『キノ・ライカ 小さな町の映画館』(ヴェリコ・ヴィダク監督)は、映画館キノ・ライカが作られる様子を撮ったドキュメンタリー映画。渋谷のユーロスペースで観た。
フランスはパリに住むクロアチア人のヴィダクがフランス人の妻と幼児とともにカルッキラに長期滞在し、カウリスマキの協力を得、代わりに映画館の壁の塗装をするなどしながら撮影。
次から次へ現れる関係者や地元民が誰が誰やらなので、シノハラ(歌手)とかペペ(元芸術家)みたいな字幕があると親切かと思ったが、慣れた。あとで公式サイトとパンフレット(九百円)で確認した。
映画館が出来ることを地元の人たちは歓迎する。「映画を観て、そのあとワインバーで話もできるようになるの、いいね」「カルッキラは良い場所だけど、文化的な部分が薄い気がしていたんだ」「アキはきっと映画祭をやるよ。ここが新しいカンヌになる」
小さなまちなのでそんなには儲からないだろうが、カネのためではないとカウリスマキは言う。
映画館の名前にもなっているライカは、カウリスマキの愛犬の名前に由来(ソ連の宇宙犬にちなんだライカ1、ライカ2。映画にも出演したがどちらも現在は鬼籍に)しているそうで、映画館のマークも犬のシルエット。ここは愛犬とともに映画が観られるそうだ。映画館オリジナルのTシャツやフーディーもあって、それはちょっと欲しい。
(映画館のサイトには英語、日本語のページもあるが通販はしていないようだ)
www.kinolaika.fi
ジム・ジャームッシュのインタビューもあった。そういえば『枯れ葉』(アキ・カウリスマキ監督、二〇二三年)には『デッド・ドント・ダイ』(ジム・ジャームッシュ監督、二〇一九年)を観るシーンがあって、うろおぼえだが、映画を観た登場人物が「こんなに笑った映画は初めて」みたいなことを言うのだった。COVID-19の流行で映画館が休業し、久しぶりに映画館で観たのが『デッド・ドント・ダイ』だった。光がちらちらと動くのが楽しくて嬉しかったが、ゾンビが出てくるホラーコメディに、豪華な俳優陣(ビル・マーレイ、アダム・ドライバー、ティルダ・スウィントンなど)で戸惑ったことを思い出し、(そんなに笑ったの?)と思ったのだった。
映画の冒頭で流れ、途中でも何回か流れるシノハラさん(愛する人を追って日本から移住した)の日本語の歌唱が良い。サウダージ。
シノハラさんとチェスをしながら「フィンランド人は日本の音楽や文学に親しみを感じているんだ、共通点が多い」とペペは言ったけれど、意図してかはわからないが二回くらいアップでMakitaの製品が映っていた。もしやマキタ電動工具になんらかの詩情を感じている? と思った。考えすぎか。工場や工事現場では信頼されているブランドなのであろう。
ヴィダク監督が来日中で、上映後の質疑応答があったが、「キノ・ライカに行ったことがある」という人が何人かいて驚いた。去年日本からキノ・ライカを訪れるツアーもあったそうなのでさもありなんだし、このように映画館が出来たことで人がやって来て、まちが活気づくということは、アキ・カウリスマキの目論見通り。
記念に監督にサインをもらった。
いつかキノ・ライカに行きたい。ヘルシンキから車で一時間ほどらしいので、ヘルシンキ中央駅近くのKampiバスセンターから路線バスでカルッキラに行けるだろう。
映画とは直接関係ないが、地元に帰って来て買い物をしていたら、フィンランド語が聞こえて来た。二人のフィンランド人(たぶん)が日本の食料品の棚を観光していた。フィンランド語に触れた一日だった。