鳥語花香録

Umiyuri Katsuyama's weblog

「七ヶ浜」現代語訳

只野真葛『奥州ばなし』より
四「七ヶ浜」

 かつて文化年間【一八〇四〜一八一八】の初め、蝦夷松前で防人をされていた間のことです。七ヶ浜のうち、大須という所で(十五が浜、七ヶ浜などといって、またさらに小さな名前があり、それは人の担当場所をここからここまでとするために切り分けたものです)、もがさ【疱瘡】が流行し、罹った者の大方は死んでしまいました。その頃、ここそこの墓を掘り返し、何者の仕業でありましょう、死体を食べられることがあったそうです。稀有なことでありますから、近くに住む者が集まって相談し、死んだ子どもを弔うため、さらには悪魔避けのために、祈祷を行い、たいへん大きな角塔婆を風越峠の頂上に建てました。下の方は大石を積み上げたりしてあったのですが、夜の間に塔婆を引き抜き、石をも投げ崩し、土を深く掘り返しておりました。どんな力自慢の悪ふざけだろうと言い合っておりましたが、それよりも疱瘡の流行はいよいよ深刻になり、毎日数多の人死にがあり、新しく土を穿って埋めたところは、掘り返され、食べられぬことはありませんでした。かくなるうえは、親たちは嘆き悲しみながらも、食べられるのを防ぐために、かなりの重い石を墓に置いたものでしたが、やはり除けられて食べられるのでした。その食われた様は、着物だけを残して、骨も髪も跡形がないというものでした。手首を一つだけ石の上に残されたこともありました。誰もが怯え恐れること、それはかしましいものでした。雨上がりに現場に行ってみると、足跡と思われるものは、人の腕を押し当てたような感じの、一尺あまりの跡でありました。(あしあとの絵)これで化け物の大きさもわかりました。また、狩人が仕留めた鹿の、皮を剥いだ肉は、外に置いていたところ、一夜のうちに骨まで食べられました。これはイノシシやタヌキの仕業ではない、はなはだ大食の者だと、ますます恐れるようになりました。その頃、誰が言うともなしに、「ほうそうばば【疱瘡婆】という者がいて、死人を食うために重く病ませて人を殺す」と言われるようになり、ご公儀に訴えて、鉄砲打ちを寄越して下さるようお願い申し上げました。その間に、このあたりをとりまとめている者のせがれ三人、十五歳、十三歳、十一歳が、一度に疱瘡に罹り、たった一夜のうちに、一度に亡くなってしまい、父は気が触れたようになり、「死んでしまったことに是も非もない。このなきがらを、むざむざ化け物の餌食にはさせぬ」と言って、なきがらを一つの場所に埋めて、十七人がかりで持ち上げた、平らな大石をその上に置き、松明を二本立てて、厳しく番人をつけ、ほかに手練れの猟師を二人、一晩百疋で雇って守らせました。二、三日して、狩人が言い出るには、「こんなに明かりを立てていては、化け物が寄りつくことはありますまい。暗くして、二人であたりを歩いて様子をうかがいたい」ということで、そうさせることにし、明かりを小さくしておいたところ、夜中に何をやっているのでしょう、土を穿つような音が聞こえてきて、「さてこれは、怪しきもの、ついに現れたか」と忍び寄ったものの、かねてからの所行に怯え恐れ、今更ながらものすごい相手に思え、二人でひとかたまりになって近寄ってみれば、闇夜なので色目は定かではないものの、何か動いているようで、隠し持った火縄銃を出したのを見るやいなや、驚いて跳ね上がり、柴山をかき分けて飛び去る勢い、翼はないものの、飛ぶようでありました。しうしうという音がして、柴木立の折りひしゃげる音は凄まじく、その勢いで起こる風に、二人とも動かされ、前のめりに倒れそうなほどでした。十七人でようやく持ち上げた石も取り除けてありましたが、番をしていた人が物音を聞かなかったのは、木の葉のように軽々と取り回したからで、その怪力のほどがわかるというものです。しかしながら親の一念は届き、埋めた子どもらは食べられることがありませんでした。夜が明けて、その逃げたあとを、人々が行って見ると、一丈五、六尺【約四・六〜四・八m】ほどの柴木立(ここは大浜というところです)の、左右へ分かれ、なびき倒れた様子は、ほんとうにものすごいものでした。どこまで続いているのか、行って見ないとわからない有様です。これまではこのあたりから来たのではというほどの痕跡もありませんでしたが、銃に怖じ気づき、惑って逃げたためこんな荒れたわけです。その後は二度と現れませんでした。柴が分かれた跡は、二、三年は残っていたそうです。(この話は早くから耳にしておりましたが、作り話ではないか知らんと怪しく思っておりましたが、藤沢幾之助という人は、その浜に知所があり、毎年山狩りに行くので、よくこのことを知っていて話すので、書き留めました。柴木立の分かれたあとも行って見たそうです。)
 その頃、まちの市日に、用を足すために、二人連れで女が来ましたが、(五十歳くらいの女が一人、もう一人は三十歳くらいで、背負った子が一人。)五十歳くらいの女は、何かに怯えた様子になり、気絶してしまいました。市の人々は驚いて、薬だ水だといたわり、ほどなく息を吹き返し、連れの女が介抱して、一緒に帰って行ったことがありましたが、なにゆえということを知る人はおりませんでした。それから三年たった頃、気絶した女が語り出したところでは、「せんだって、市に行ったときに、ふと向かいの山を見ましたら、身の丈が一丈【約三m】余りもあるかというけものが、大木の切り株に腰掛けており、頭には白髪がふさふさと生えているのが山風に吹き乱れ、顔色は赤く、顔かたちは女のようでした。目の光はきらきらとして、おそろしいことは言い表せません。これはこの頃耳にする、死人を掘り出して食らうという獣にちがいない、と思ったとたん、五体がすくんで気を失ってしまいましたが、そのことを語って身に災いがあってはと、恐ろしくて謹んでいましたが、獣の通った跡さえ無くなったので、今になって語るのです」ということでした。
 これをもって思えば、疱瘡婆と言いますが、拠り所のあることであります。塔婆を抜いたのも、このような辺鄙な土地で、こんなことをする人があれば、誰と名前が知られないわけがありません。新たに土を掘り、石を据えるなどしたので、なにかあるのではと、掘ってみたのでしょう。死人の有無さえも気がつかないのは、勢いはあっても神通を得た者ではありますまい。どこから来たのでしょう、古来前後、聞き及ばぬことでありますと人は語っておりました。