鳥語花香録

Umiyuri Katsuyama's weblog

塩澤快浩二十年を語る

二〇一一年三月六日(日)午後六時十五分より
SF乱学講座@高井戸区民センター
講師 塩澤快浩早川書房

「SF冬の時代」について。ということですが、この春で早川書房に入って丸二十年なので、二十年を振り返らせていただきます。
ここに来た人で、一番若い人は?(二十二歳が二人、二人ともS-Fマガジンは最近読み始めた)
私は一九九一年四月に新卒で入社。S-Fマガジンに配属。最初のS-Fマガジンは七月号。編集後記にSFは読んでいなかったと正直に書いたら上司の阿部さんに怒られたので直した。
当時は今岡清編集長で、阿部、冨田健太郎さんがいた。
FT文庫に配属されるはずだったが、S-Fマガジンに配属される予定の人が大学を卒業できず、代わりに自分が配属された。
当時の早川書房にはそうそうたるメンツが揃っていた。村山(白石朗)さんとか、風間賢二さんとか。
人の入れ替わりが激しく、毎月送別会だった。入社十年くらいで辞めるのが普通なのかなあと思っていた。最初は原稿を取りにいったりしていた。まだ電子メールはそんなに普及してなかったので、イラストの原画とかはほとんど。編集後記くらいしか自分をアピールするところがなかった。学生時代に中野のコンビニでバイト中に全裸男性が現れたことがあり、異質なものに遭遇して、自らの存在を問い直す、それがSFの本質ではないかと感じた。(エスカレートする編集後記。和久井映見へのほとばしる愛)小説ページに入っている三分の一広告とかで変わったことをしようと思った。店頭にないが僅かに在庫があるとJ・G・バラードの『ハイ-ライズ』の広告を打ったら巽孝之先生に褒められた。売れたかどうかは覚えていない。
九一、二年は下っ端で雑用ばかり。二年弱で冨田さんが実家に帰って家業を手伝うと言って退社することになり、色ページ担当だったので、いきなりそれが僕のところに。SF文庫の八十年代傑作選が出るときの色ページで、八十年代のSFをふりかえる年表を作って上司に見せずに掲載する。ミスが多く、山岸真さんから記事のコピーに赤でチェックの入ったものを寄越され(クリアファイルに入った現物を会場で回覧)、六階のエレベーター前で冨田さんに大きなため息をつかれた。九三年ぐらいから巻頭記事を担当。その流れで「ゴジラvsメカゴジラ」の取材に行ったところ、同じ撮影所で和久井映見を見かける。走っていって話しかけなかったのが最大の後悔。
入社当時は一日一冊翻訳SFを読んでいた。
あちこちで言っているんですが、たぶん、いちばんモチベーションになったのは、九三年の夏ぐらいに、SF文庫が刊行千点を迎えて、S-Fマガジンでの取り扱いがカラーで四ページ。読者に好きなSF文庫を聞いたりして、お茶を濁したんです。そしたら伊藤典夫さんと高橋良平さんに呼び出され、阿部編集長と歌舞伎町で朝まで説教をくらった。「(刊行点数が千点を超えるなんて)画期的なことなのに、一冊全部で特集してもいいじゃないか」と言われる。反論しないおとなしく聞いている編集長。自分を認めて貰うためにやってきたのにこれでいいのかとここで火が付いた。その晩眠れなくて考えた。このあとから、月に一回、浅倉久志さん、時には山岸真さんとかも入れて会議を行い、特集を決めたりした。九四年頃から九五年。初めて特集をまるまる担当したのは九五年二月号、「ダン・シモンズ特集」
九六年二月号(三十六周年記念)の特集で会社に一週間泊まっていた。会社に仮眠室なんかないので、朝方二、三時間机に突っ伏して寝る。最後の朝、校了して、阿部編集長に寿司を食べに連れて行かれ、説教をされる。「仕切りが悪すぎる」って。ねぎらわれると思ったのに。
この時の号はかなり厚くて、量も大変、意気がってたのね。(二〇〇九年四月号からS-Fマガジン編集長の)清水さんが入ってきたばかりだったけど、その前は入社半年ほど群馬の流通センターにいたので編集では新人。
……編集後記では和久井映見への愛を語った。萩原某と結婚して心が穏やかでなかった、その気持ちをまとめる意味で編集後記で連載した。作家のK先生に心配された。和久井映見連載が終わってスランプとなる一九九六年九月号と十月号。そのとき内示もなく編集長を任命。常務(営業畑を歩んできた人)の人事でした。九六年十一月号から。出かけていて外から帰ってきたら(小倉で行われた日本SF大会から帰ってきたららしい)「編集長が入ってきた」と言われて、冗談かと思ったが辞令が出ていた。
(続く)