鳥語花香録

Umiyuri Katsuyama's weblog

塩澤快浩二十年を語る(続)

(続き)
(一九九六年十一月号からS-Fマガジン編集長になる)
S-Fマガジン編集長になるまでは、日本の、国内作家はほぼノータッチだった。翻訳ものばかりをやっていた。さかのぼって国内作家を読んで、呼んでくるのは物理的にも不可能だし、否応なく新しい作家をみつけないといけないと思った。編集長、清水、アルバイトの三人体制だった。新しい国内作家を発掘するよりも、毎月出すS-Fマガジン優先。
九七年のはじめに「クズSF論争」が『本の雑誌』三月号で。今のSFにエールを送るような内容だが、タイトルは扇情的だった。タイトルが一人歩きしたようなところがあった。「SF冬の時代」について日本経済新聞に取材され、「国内SF、『氷河期』の様相」という見出しで、私が「日本SFは袋小路にある」と言ったと、言ってもいない恣意的な記事を書かれた。
菅野圀彦(すがのくにひこ)さんに相談したら、反論した方がいいと言われて九七年五月号で反論した。
フォーラムをもうけて巽孝之野阿梓大原まり子さんらに今のSFについて書いてもらった。
新しい作家も生まれ、育ちつつあった時期。JA文庫もSFに限らない国内作家の総合レーベルにリニューアルし、漫画も扱うようになっていた。
本の雑誌』で鏡明さんが「S-Fマガジンの編集長はものごとを客観的に見ている、期待している」と書かれたことが励みになった。
九八年末の五〇〇号記念に向けて準備をしていたが、そのさきのことも考えていた。
(会場から質問、最近SFが売れてないというムードがあったか?)
あったような気がした。
九八年の一、二月号は、定価を高めにさせてもらって、黒字が出た。
書籍を担当するようになったのは、書籍もやりたいです、と手を上げたような、そんなこともなくいつの間にか。最初の本は神林長平さんの『グッドラック―戦闘妖精・雪風』で、最初から重版重版、雑誌にはないことなので、面白くなった。
二〇〇〇年始めに「SFが読みたい!」を開始。雑誌、書籍、ガイドブック的なものが揃ったかな。Jコレクションの構想もあった。Jコレの企画を上に通して、雑誌に人を増やして貰った。そして二〇〇二年からハヤカワSFシリーズ Jコレクション刊行。Jコレにしても、作家を捜して声をかけるということはあまりなく、たとえば『太陽の簒奪者』は京フェス野尻抱介さんとお話をして、飛浩隆さんの『グラン・ヴァカンス』もJコレをやろうかと思う一年くらい前に原稿が届いていた。場、を作って、いろんな人に集まってもらったような気がします。『マルドゥック・スクランブル』とかもそうだし。たぶん、SFMだけだっらこういうことにはなかった。ハルキ文庫、小松左京賞、SF Japan、日本SF新人賞も始まって刺激を受けた。中津さん、大野さん、加地さんの仕事にも影響を受けた。二〇〇三年に講談社の太田さんが『ファウスト』を始めるというので、「リアル・フィクション」を立ち上げた。
大胆に動くこともあるけど、終始一貫、調子の良い時を長く持続するほうを心がけております。
小松左京賞、SF新人賞も終わり、Jコレもいつ終わるのかという感じですが上田早夕里さんの『華竜の宮』、三島浩司さんの『ダイナミックフィギュア』も出だしから好調、忘れてましたが『ダイナミックフィギュア』はJコレ五十冊目でした。四月には五十一冊目が出ます。
(会場からの質問。「SFコンテスト」は?)
何年もやるやると言ってますが、近いうちに。長さ問わず(短編も可、長編も可)でやりたいなあ。社内で国内フィクションを統括しているし、アガサ・クリスティー賞(ミステリの公募)も見ないといけないので、ここにコンテストを加えるのはどうなのか。人員的に。
SFといえば早川書房という印象があるせいか、徳間書店さんは新人作家を出してもなかなか苦戦する。結局うちに原稿が来る。新人賞を運営するのはたいへんだし、正直、なくても新人集めに苦労をすることがなかったんです。
(質問。既に他社で実績がある作家が塩澤さんに担当してもらうには?)
原稿を送って、しつこく電話をかけていれば、もしかするといつかは。
新人賞の最終に残ると早川書房で読んでもらえると聞いて、と電話をかけてくる人がいたが、そんなことはありません、噂です。
三年くらいずっと管理職の仕事もあって忙しかったけど、二月に辞令が出て、会議に出なくてよくなったんですよ。会議に出なくなってから本や原稿が読めて読めて。原稿を読んで貰おうという人は今がチャンスかも。
(本編、終わり)
(質問「冬の時代」をどう意識されていましたか?)
クズSF論争のときは、早川書房がものを考えてSFの出版をしていなかったと思う。自分は戦っている意識はなかった。(入社した九一年以降、SF春の時代はあったと思うか?)Jコレ刊行以降だろうか。二〇〇三年に小川一水冲方丁。二〇〇六年に冬に戻りかけた気もしたが、円城塔伊藤計劃を出せて、また春の時代に。『虐殺器官』が二十万部売れて、これがSF初夏の時代ならいいなあ。国内フィクション統括の立場上、SFだけでなく国内ミステリも頑張れとも言われているのです。