鳥語花香録

Umiyuri Katsuyama's weblog

はかりごと

  はかりごと 勝山海百合

 日暮れに金沢の出張から横浜に戻り、仲町台の自宅の玄関を開けると、上がり框に妹の香澄【かすみ】がつっ立っていた。驚いて声が出た。僕の驚きをよそに、香澄は、「もうすぐ、お父さんの十三回忌じゃん?」とぼんやり呟いた。うん、と頷いた。しばらくそのまま二人で固まっていたが、ふいに香澄は我に返り、お兄ちゃんお帰りと言った。
「今、スギヨおばさんが来てた。お父さんの弟の奥さんだった人」
「千葉からわざわざ。おばさん元気だった?」
「元気そうだった。うん。それでね……お父さんの夢を見たんだって」

 僕たちの父は十二年前に突然姿を消した。父の印刷工場の経営は、余裕はないものの倒産するほどでもなかったらしいのだが。父が消えた後、会社を手放した我が家は中学生と小学生、二人の子どものいる母子家庭となった。母の頑張りのお陰で飢えはしなかったが、いつも疲れた顔をしている母を見るのが辛く、悪い思い出もない父を怨むのも難しかった。父はどうして僕たちを捨てたのか、そのことが胸にわだかまった。奨学金とアルバイトで高校と大学を出たが、その間に失踪から七年経って父の死亡宣告が出された。僕たちはお寺で父に戒名をもらい、法事を行い、父はもう死んだのだと区切りをつけることが出来たと思う。
 それはさておき、おばさんが言うには、夢に現れた父は、いなくなったときと同じラガーシャツ風の太い縞のシャツに灰色の作業着を着ており、失踪当時と変わらぬ四十歳くらいに見えたそうだ。
「高尾山で天狗様について修行をしているのだが、子ども達が勝手に戒名をつけて、坊主に読経などさせているせいで先に進むことができない。俊太郎【しゅんたろう】(僕の名前だ)のところに行って、止めさせてもらえないだろうか」
 と言った……。
 まるで現実にいる人と話しているみたいで、目が覚めてもしばらく動悸が治まらなかったおばは、大事なことかも知れないと我が家まで来て、コートも脱がずに玄関先でまくしたてて帰ったらしい。

「あがっていい?」
 香澄の話をそこまで聞き、靴を脱いで家に上がった。荷物を下ろして、手を洗い、自分の部屋で部屋着に着替える。居間に行って金沢の人に薦められて買った餅菓子、圓八【えんぱち】の「あんころ」を一つ、小さな仏壇に供えた。香澄にお土産があるからお茶にしようと声を掛けて煎茶を入れた。あんころを十字に縛ってある紐をほどき、竹皮を開くと、中で漉し餡がてのひらほどの大きさの薄い四角になっていた。付属の爪楊枝でつついたら、餡の下に餅の手応えがあった。賞味期限が当日限りなので、夜になって水気が少ない硬めのあんこになっていた。午前中ならもっと柔らかいのだろうと推測した。
 僕はあんこに埋もれている九つの餅を四つと五つに分けて小皿に盛り、五つの方を香澄にやった。指先ほどの餅を黒文字で口に運ぶと、口の中で竹の香りがする漉し餡がほろほろと崩れた。素朴なつくりだが、悪くない。
 餅を口に運びながらあんころに添えられた栞を読んでいた香澄が、読み終わった紙片をテーブルを滑らせて僕に寄越した。栞にはあんころの由来が書かれていた。……江戸時代のこと、妻子がありながら突然失踪した当家の主人が、数年後に家人の夢枕に立ち、鞍馬山で天狗の修行をしていて帰ることが出来ないと言い、餅の製法を伝えた。これを食べると長生きし、商売にすれば家が栄えると言われ、その通りにして今日に至っている。
「お兄ちゃん……十三回忌、どうする?」
 香澄が不安げに尋ねる。聞きながら僕は栞の紙を折って、小さな四角い入れ物を作った。爪切りの時に切った爪を入れて、ごみ箱に捨てるのにちょうど良い大きさになった。
「やるさ。おばさんの言うことなんか聞く理由はない。親父も言いたいことがあるんなら、せめて家族の夢枕に立てってんだ。圓八のご先祖みたいに」
 玄関が開く気配がし、母のただいまという声が聞こえた。
「余計な心配するから、おばさんのこと、言うなよ」
 声を潜めて囁くと香澄が頷き、二人でおかえりと叫んだ。と同時に母が「俊も帰ってきたの? 特売で安かったからトンカツ買って来ちゃったー」と賑やかに居間に入ってきた。
「玄関がケダモノ臭いんだけど、野良猫が来てオシッコしたのかしらん? いやーね」


『幽』vol.10(二〇〇八年)掲載を加筆した。原稿用紙約五枚。
芥川龍之介『椒図志異』の「たのみごと」を下敷きにして、独自に展開させた。