鳥語花香録

Umiyuri Katsuyama's weblog

海とコーラ

  海とコーラ  勝山海百合

「兄ちゃん、とめて……」
 ヤマグチの腹に響くエンジン音にかき消されながら佐江の声が聞こえたので、路肩にオートバイを止めた。男物の防寒作業着を着た佐江がよろよろと道端に近付いてしゃがんだ。
 妹の佐江は海を見たことがなかった。山がちな内陸に住んでいると海を見ることもないので、高校を卒業するお祝いに海を見せてやろうとオートバイに乗せて連れて行くことにしたのだ。遠野の赤羽根峠を越えて、住田を通り、岩手では珍しい長い砂浜の高田松原に行くという計画だった。しかし道はガタガタだし、山道は細く曲がりくねって後輪がずるずる滑るしで、佐江はすっかり酔ってしまい、枯草の中に吐くと、手拭いで口元を拭った。戻ろうか、と佐江に聞くと「もうなんともね」と言ったが潤んだ目はそうは言っていない。三ツ矢サイダーでも飲んだらすっきりするかもしれないと思ったら、甘酒と白抜きされた赤い布が冬枯れの木立の中に見え隠れしているのに気付いた。ほらと指さし、あそこで少し休もうと提案し、佐江を乗せるとクラッチを繋いでそろそろと走り出し、赤い旗を目指した。
 旗のある茅葺き小屋の前にオートバイを停めた。藍染めの暖簾を掻き分けてガラス戸越しに中を覗くと、土間に簡素な椅子が並び、棚にサイダーやドロップ缶がずらりと並んでいた。「コカコーラもあるじゃ!」傍から覗き込んだ佐江がはしゃいだ声を上げた。コーラは一口だけ飲んだことがあるので「あんなの薬くさいだけだぞ」と威張って言った。
「一本買って、二人で分けっこすっぺ」
 佐江が飲みたがったので買ってやることにしたのだが、戸が開かなかった。人もいない。
「……兄ちゃん、えさけっぺ(家に帰ろう)」
 佐江に肘を引かれたので海には行かず、花巻温泉に寄って風呂に入り、蕎麦を食べて帰った。
 以来、そこを通るたびに目をやるが、赤い幟も小屋も見たことはない。


(みちのく怪談コンテスト応募作)