現代の東北を舞台に物語を織り上げようとすると、そこには二〇一一年の大震災が緯糸(よこいと)に入ってくる。震災について直接触れていなくても、敢えて書かないと選択しても。避けて通れないクレバスだ。
ずっと続くと思っていた日常が、大きく揺れて裂けた地面と大津波で断たれ、家族や友人、同僚、近所の人たち、憎らしかったアンチクショウを失った九年まえ。生き延びた人にも九年の霜が降る。
第三回仙台短編文学賞を受賞した佐藤厚志の「境界の円居(まどい)」の主人公の翔は高校生で、震災のときは小学生だった。登校前に新聞配達をしている翔の暮らしには家族の老いや病が影を落としている。家族という名の乗り合わせた船は、航路の難しいところに差し掛かっているのだが、今すぐ転覆、遭難というわけではない。
翔が新聞配達を早く終えたときだけ缶コーヒーをおごってくれる年配の配達員の柴田は、ふだんは無口な男性で、長年連れ添った妻を津波で亡くしている。避難するとき、妻は自分のすぐ後ろについてきていると思っていたのに、いつの間にか離れていて妻を一人で波にさらわせてしまったことを後悔している。小学生だった翔の傷は、震災の直後に被災地泥棒と鉢合わせしたとき、悪漢に対して無力だったこと……というか正義が通用しなかったことだ。誰もが大なり小なりの苦い記憶を抱えながら、外から見えるところでは乱れもせず社会の一員としての務めを果たしていることの生々しさ。佐藤の筆は痛いほど鋭い。
多くの死のあとも、誕生する命があり、成長があり、病む者もあれば老いる者もある。世の中の当たり前のことを、佐藤は朝の太陽のような鋭角の強い光で照らして、あるがままに描く。光によって陰影が際立ち、表面の肌理まで浮かび上がらせる。
展開も巧みだ。
失われたものを取り戻したわけでも、火の山に運命の指輪を捨てたわけでもないのに、小さな伏線とその回収で明るい気配のある終わり方をしているのも好かった。
生きる理由を殊更に求めなくてもいいし、理由なく生きていていいのだと改めて思う。COVID-19が猖獗をきわめる現代においては猶更そう思う。小さな喜びと小さな悲しみが珠のように連る美しさが人生なのかも知れない。そしてその長短に貴(ねうち)の差はない。
(二〇二〇年以降の人類もしくは人工知能が現代社会をフィクションとして描くとき、新型コロナウイルスに感染して大勢が倒れ、症状のない人も外出を禁止されたり外出自粛を要請されたりし、スーパーからトイレットペーパーがコメがパスタが消えたこと、他人と距離を取ることを推奨されたのに日本では満員電車で通勤する人たちがいたことがあぶり出しのように浮かぶだろう)