鳥語花香録

Umiyuri Katsuyama's weblog

朝の庭

  朝の庭  勝山海百合

 朝もやの中、老いて縮んだ女性が藍色木綿の上着と灰色のズボンの普段着で庭に出ると、鬼百合の花に灰色の紙が引っ掛かっていた。彼女が蕾が折れないように染みのある指でそっと摘まむと露で濡れて重みを増した紙の落下傘で、紐の先に木片がついていた。墨で「学校がはじまります」裏を返すと「月曜の朝から 村の広場」と書いてある。村には小学校がなく、彼女は学校に通ったことがないのでこれを見て胸が躍った。今日が月曜日と気付くと、思わずゴム底の布靴で走り出していた。膝も腰も痛まないので笑顔になる。
 そう、そうだった。昔はこんな風に動くことが出来た。物怖じすることもなく、どこへでもいけた。夫と出会ったのもその頃だった……女性は思い出した。

 深い山の奥で育ったので、夫は初めて出会った人間だった。優しく親切にしてくれたので、世間知らずのわたしは恋に落ちて、恋に落ちたら夫婦になるものだと思い込んでいたので、山で身につけていた毛皮を脱いで、結婚した。村の女は毛皮なんか着ていなかったから。
 村のはずれの小さな家で、夫の子どもを産んで、育てて、大変だったけど楽しかった。夫は声が好くて、わたしは古い物語や詩を朗読するのを聞くのが好きだった。そのときに字も少し覚えた。
(小玉、これがおまえの名前だ……)
 夫が亡くなってからはもう楽しいことはないと思っていた。それなのに、今朝はこんなにわくわくする。

「母さん、朝の薬湯を飲んで」
 息子が母親に声を掛けたが返事はない。息子は普段は街で暮らしているが、一人で暮らす母親が心配で、しばしば帰って来ていた。
 庭の手入れに出たのかと思って窓の外を見ると、石垣の中の小さな庭の菜園の向こうに鬼百合の花が揺れていた。梅花のような斑の雪豹が堂々と庭を出ていくところだった。

(二〇二〇年ワールドコン CoNZealand の Reading programme の七月二十九日の朗読で初公開した、てのひら怪談