鳥語花香録

Umiyuri Katsuyama's weblog

驢の教え

  驢の教え  勝山海百合

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 その家の数えで十二になる娘が病臥している薄暗い部屋に人の気配が近付いた。娘は肉の落ちた土色の顔で、老婆のようにも見えたが、自分に取り憑き重くのし掛かっている何かが、気もそぞろに離れたがっているのがわかった。
「来ていただいたよ」
 娘が声の方に目をやると、部屋の仕切り布に人と驢馬の影が映り、驢馬の耳がブルッと震えたが、母親が布を掲げ持つと、現れたのは一人の中年男だった。男は擦り切れて継ぎの当たった着物を着ており、娘には父親や兄達と変わらぬ農民に見えた。男は合掌して何事か呟き、娘に声を掛けた。
「嬢ちゃん。どんな気分だい」
 娘を寝床に押しつけていた不快な重さがすうっと失せた。母親が「この子は口も利けなくなって」と言いかけると、娘が「今日は起きられるかも」と薄い上掛けからささくれた指先を覗かせた。笑顔すら浮かべたので居合わせた家人は皆、驚き怪しみ、喜んだ。
「驢馬は?」
 娘が尋ねても男は静かに笑うだけだった。

 男の家では代々仏法を信心しており、毎年僧侶を招いて法事を行っていた。あるとき、男が何か法力のある言葉を教えてくれと頼むと、僧侶は「驢」という言葉を男に示し、「困難や危機に際してこの言葉を唱えれば道は開ける」と言ったので、男は朝夕に唱えるようになり、やがて何かに憑かれて病んでいる人のそばに男が行くと、それだけで快癒するようになった。男が水鏡に映った自分の姿を見ると、背後に青毛の驢馬がいるのが見えた。
 旅の僧侶を家に招いて斎を施したとき、男は自分は「驢」を知っていると打ち明けた。僧侶は悲しそうな顔をし、「それは仏法にはないことです」と言った。男が担がれていたことに気づいた途端、旋風が吹き抜けた。それきり神通力は失せ、驢馬も見えなくなった。